大分県玖珠郡九重町飯田高原                          ホームサイトマップお問い合わせ

朝日長者伝説と七不思議 あさひちょうじゃ ななふしぎ   

飯田高原には「朝日長者伝説」という伝説があり、その長者にまつわる「七不思議」が存在します。
 七不思議とは…
「音無川」「鳴子川」「念仏水」「不断鶴」「殺生石」「青梅」「青たで」

町出身の俳人・長野馬貞が読んだ七不思議にちなんだ俳句も紹介しています
音無川

長者屋敷の近くを流れていた川は、
長者から「川の音がうるさい!」と
怒鳴られて以来、水流は激しいが
瀬音は低くなったといわれています。
長者の威光を恐れて、川さえも音を
ひそめたのです。現在は河川工事
のため、川筋は変わってしまいました。


「花散りて畳のうへのながれ哉」
              馬貞
鳴川

長者屋敷から離れた場所にある川。
“鳴子川”とも呼ばれています。
音無川とは違い、細流で流れはゆる
やかですが、瀬音ばかりは激しいと
いわれています。


「なる河や小石流れて夏の月」
              馬貞
念仏水

昔は熱湯を吹き上げる大地獄であり
ましたが、後ろにある合鴫山に財宝を
埋めた長者が秘密を守るため、人夫
や牛馬を投げ込んで殺したそうです。
ところが異変 が起こり、地獄は大岳
に移り、熱湯のかわりに冷水が湧き
出るところとなったそうです。岸辺を
南無阿弥陀仏と唱え足踏みすると
、ブツブツ(仏々)と水音がす るといわ
れています。


「枯栗の音やふつふつ念仏水」
              馬貞
不断鶴

長者屋敷につがいの鶴が住みついて
いました。子を生むと親鶴はどこかへ
去り、その後も代々、雄雌二羽が生き
続けていたので、“不断の鶴”と呼ば
れていました。ある日、心無い猟師に
よって鶴は撃たれて死んでしまいまし
た。その供養の墓「鶴之墓」があります。


「飛車角に鶴の立たる雪野哉」
              馬貞
殺生石

昔、石の下からガス(炭酸ガス)が出て
おり、鳥や虫、小獣が死んでいるのが
見かけられたといわれていましたが、
水路工事をしてからは、出なくなった
そうです。


「吹きおろす石のあらしや彼尾花」
              馬貞
青梅

長者が好んで食したもので、地元では
長者梅とも呼んでいます。
学名「クサボケ」という、高地性の
小潅木植物です。


「青梅はからつくまでを秋仕廻」
              馬貞
青たで


長者が好んで食したという、タデの一種。
普通は赤タデが多いのですが、この付近
には所々、青いタデが自生しており、葉も
実も香辛料になるとされています。


「青蓼やすすきは秋の風の音」
              馬貞

  
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朝日長者伝説

今から 1300年前、飯田高原千町無田に「朝日長者」とよばれる長者が住んでいた。長者は、この付近一帯に土地を持ち、黒木御所というりっぱな御殿をかまえてい た。長者は、「後ろ干町前千町」といわれるほど、たいへん広い土地をもっていた。屋敷の中には、近くを流れる音無川を引きいれ、大きな池をつくっていた。 そればかりか、九重山群を築山とし、飯田高原を前庭として、それはそれはぜいたくの限りをつくしていた。

長者がもっていた千町の水田は、土地もこえ水にもめぐまれ、たいへんイネのできばえがよかった。長者の家では、旧植えの時期にいちばんいい日をえらび、お おぜいの人を使って一日で植えてしまうのが、今までのならわしであった。この年もいちばんいい日がえらばれ、朝早くからたくさんのやとい人が出て、田植え がつづけられていた。ところがどうしたことか、この日にかぎって仕事がなかなかばかどらず、夕方に近づいても田植えはすみそうにもなかった。ついに長者は 腹をたて、「なんとしたことだ。日がくれるぞ、急げ、急げ。」と、どなりちらすが、いっこうにすみそうにない。気はあせるばかりであった。
                                        
日がまさにしずもうとしたときだった。長者は、東の山の上にかけあがると、手にした扇をひらいて、「かえれ、かえれ。」と、お日さまにむかって大声でさけ んだ。すると、ふしぎなことに、今まさにしずもうとしていたお日さまが動きをとめた。みんなはどっと歓声をあげた。その間に、残り全部の田植えをたちまち すませてしまった。後に、この山を扇山と呼ぶようになった。

これほどの長者でも、日照りだけはどうしようもなかった。
ある年のことだ。くる日もくる日も、お日さまはギラギラともえ、革も木も焼けただれんばかりに枯れはててしまった。後ろ干町前千町の美田もすっかり荒れはててしまった。
長者はほとほと困りはて、黒岳の北のふもとの男池に雨ごいをした。長者は、原生林につつまれた池のほとりでけんめいに祈りつづけた。雨ごいにはいって七日 め、長者のいのりが通じたのか、雨雲が空をおおった。やがて、大つぶの雨が大地をたたきはじめた。ひあがった川に水があふれ、田も畑もすっかり緑をとりも どした。村にふたたび活気がもどってきた。

その年、村は豊作の喜びにわきかえった。けれども、村人がわきかえればわきかえるほど、それというのも、雨ごいのとき、雨をふらせることと引きかえに、竜 神様にとんでもないやくそくをしてしまったからだ。そのやくそくというのは、雨をふらせてくれたら、じぶんの三人の娘のうちのひとりを竜神様にさしあげ る、というものだった。

長者には、三人の心のやさしい、美しい娘がいた。父の苦しみを知った姉娘の豊野姫は、いけにえになることを父に申し出た。
「もし、竜神様とのやくそくをはたさなければ、一家だけでなく村じゅうにわざわいがふりかかりましょう。わたしひとりの命ですむことでしたら、豊野はよろ こんで竜神様のいけに えになりましょう。」 これを聞いた二番めの秋野姫は、「姉さまは、朝日の家をつぐ大事なお方です。池にはわたしがまいります。」 と言いながら、姉のすそにとりすがった。姉妹とも、身をささげる決心をして、たがいにゆずろうとしなかった。

ある夜、三女の千鳥姫が、屋敷からふっと姿を消した。姉ふたりのようすを伝え聞いて、自分がいけにえになろうと決心したのだった。ふところに守り本尊の観音像をだいて、姫はまっ暗な夜道を男池へと急いだ。
姫は、池のほとりにつくと、いっしんにお経をとなえはじめた。長いこと唱えつづけ、やがて夜明け近くなった。水面がざわざわと波だったかと思うと、池を二 つに割って大蛇がおどり出た。大蛇は一口で千鳥姫をのみこもうと、口を大きくあけた。そのしゅん間、観音像が黄金色にかがやいて、さっと大蛇の口にとびこ んだ。とたん、今までたけりくるっていた大蛇は急におとなしくなり、姫に話しかけてきた。

「わたしは、もと長者の先祖につかえていたうばでした。ある罪のためこの池になげこまれ、このような大蛇になったのです。今、観音様のお慈悲とあなたの孝 行心によって、極楽に行くことができるようになりました。これから白水川にそって山をおりなさい。きっと幸せになれるでしょう。」と言ったかと思うと、大 蛇の姿はふっと消えてしまった。

姫は大蛇のことばにしたがって、白水川にそって山をおりた。今の玖珠町八幡に着くと、そこの多久見長者の下女として住みこんだ。やがて長者の息子にみそめられ、いっしょにくらすようになった。

こうしたできごとがあったものの、朝日長者はいつしか夕日をよび返したときのように、再びおごりたかぶるようになった。
姉娘の豊野姫に筑後(福岡県)からむこをむかえ、お祝いの会が十日十夜もつづいていたときのことだった。うちつづく酒もりにつかれはて、あいてしまった長 者は、神前にそなえてあるかがみもちを見て、矢をいると言いだした。おどろいてまわりの者がとめようとしたが、「ばかを申すな。わしほどのものに神罰が下 るはずがあろうか。朝日長者は神仏以上じゃ。心配するな。」と言って、弓をひきしぼり、ひょうと矢を放った。矢はもちの中心にぶすりとつきささった。する と、ふしぎなことにもちは一羽の白鳥となって、大空高く北の方へ飛び去った。

「今の白鳥は、長者の氏神、白鳥神社のお使い烏にちがいない。」
一同は顔を見合わせて、ひそひそとささやいた。
このことをきっかけに、長者の家運はしだいにかたむきはじめていった。

ある日、長者はあり余る金、銀、財宝を山にかくすことを思いたった。妻やまわりのものの反対をおしきり、長者は遠くからやとった石工たちを使って、強鴫山 に穴をほらせた。そして、ある夜、ひそかに宝物の山を運ばせてうめてしまい、穴をほった石工たちや人夫たちばかりか牛や馬まで、みな毒をもって殺してし まった。

それからというもの、長者の家にはふしぎなたたりが次から次へとあいついだ。火のないところから火事がおこったり、ふしぎな病人がでたりした。そのうち、 自ら命をたつ人がつづき、ひとり、ふたり、三人と死んでいった。たたりをおそれたやとい人達がしだいに去っていき、あれよあれよという問に長者屋敷はさび れていった。三百年の長い間、金の力をほこり、その名を国じゅうにとどろかせた朝日長者も、すっかりおちぶれてしまった。

そんななかで、長者も病にたおれた。高い熱がつづき、床の上をころげまわって苦しんだ。
七日七夜苦しみつづけ、ついに八日めの朝、息をひきとった。

長者のそう式は、これがかつての朝日長者かと言われるほどさびしいものであった。長者の家に行けばたたりがあるといううわさが広まり、長者の死を聞いても だれひとりかけつける者もいなかった。長者の死んだ日は、ふしぎなことにちょうど一年前、宝物をうめた日でもあった。

残された豊野姫と秋野姫の姉妹は、うしろがみをひかれる思いで千鳥姫のとつぎ先の玖珠の多久見長者をたよって旅だった。あまりにもむごい運命に、ふたりは 泣きながらとぽとぽと歩きつづけた。それで、そこを「なきなが原」という。とうげにやっとの思いでたどり着いたふたりは、とうとう力つきてどっとたおれ、 そのまま息をひきとってしまった。

その近くのクヌギ林の中に、二体のそまつな石の墓がある。土地の人は、これを豊野姫と秋野姫の墓だと言って、今でも大事にしている。


                                  大分の伝説より  文:橋本邦雄